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全国編
堺市へ出かけた。街中で3人の偉人の像を見かけた。 今ままでも時折ではあるが、公園などで見かけてきた。 新シリーズとして、今後発掘、掲載していきたい。 1)氏名 2)設置場所 3)説明 (平成18年8月30日) |
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1)小池仁郎 2)根室市(根室公園) 3)1866〜1936年。 |
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| 1)太田道灌 2)埼玉県川越市(市役所) 3)1432〜1486年。室町中期の武将・歌人。 相摸国の人。扇谷上杉家の執事。築城・兵馬 の法に長じ江戸城や川越城を築く。江戸城に 文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、 『慕景集』がある。扇谷上杉家の勢力増大を 恐れた山内上杉顕定方の讒言により、 主君定正に殺される。(080504) |
| 1)瓜生岩子 2)東京都台東区(浅草寺) 3)1829〜1897年。日本のナイチンゲールと 称される慈善事業家。今の福島県喜多方市生まる。1868年に会津で始まった戊辰戦争の際、 敵味方の区別なく助け、看護した。その後、身寄りのない子供やお年寄りを世話したりする 養育院や貧しい人を無料で治療する病院をつくるなど、福祉事業に一生を捧げ、女性初の 藍綬褒章を受賞した。この像は台東区福島県人会の主導で建立された。(080504) |
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1)板垣退助 2)岐阜市(岐阜公園) 3)1837〜1921年。土佐藩出身。 自由民権運動の創始者。1881年、 自由党結成とともに総裁に就任。(080329) |
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(特別掲載) 1)高橋尚子 2)岐阜市(長良川河川敷堤防) 3)1972年〜。 シドニー五輪女子マラソン金メダリスト。このロードは高橋選手の偉業をたたえようと、 県岐商校時代にトレーニングしたコースを岐阜市が整備したジョギングコース。(080329) |
| 1)棚田嘉十郎 2)奈良市(平城宮跡) 3)1860〜1921年。観光客に平城宮のありかを尋ねられ、荒れ放題の平城宮跡を見て保存の必要性を強く感じ、地元で保存の必要性を説く。自費で上京しては篤志家を募った。知事の協力を得て御下賜金300円を引き出し保存運動を盛り上げるが、推挙した篤志家の裏切り行為を恥じ、大正10年割腹した。遺跡は嘉十郎死去の翌年国指定の史跡となり、銅像が支持者達の手により平城宮跡地に建てられた。 (080322) | |
| 1)西郷四郎 2)会津市(会津武家屋敷) 3)1866〜1922年。会津藩士志田貞二郎の三男として生まれ、三歳の時戊辰戦争が起こり一家は若松から津川に移住した。明治15年上京、下谷永昌寺の講道館に入門し、近代柔道の礎を築く。その間西郷頼母の養子となる。小兵ながら山嵐の大業をあみ出し小説「姿三四郎」のモデルとなる。明治23年講道館を去り、後に長崎で長崎遊泳協会創設者として大きな功績を残した。大正11年に尾道で病没。 (080316) | |
1)松尾芭蕉 2)福島市(飯坂温泉駅前) 3)「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」の句を残す。 (080316) |
| 1)松尾芭蕉と河合曽良 2)山形市(山寺) 3)(松尾芭蕉)本ページ中尊寺の欄参照 (河合曽良)1649年〜1710年。江戸前期の俳人。1649年現在の長野県諏訪市に生まれる。伊勢国長島の河合家に養子となって、長島藩士となる。後に浪人となり、1681年に江戸に出て、松尾芭蕉の門下となる。松尾芭蕉の「鹿島紀行」や「おくのほそ道」の旅に同行、芭蕉の身辺の世話をした。焦門十哲の一人。 1689年に芭蕉と曽良が山寺を訪ね 「閑かさや岩にしみ入る蝉のこえ」 の名句を残した。 (080314) |
| 1)藤堂高虎 2)三重県津市(津城) 3)1556〜1630年。現在の滋賀県犬上郡甲良町に生まれ、15才の時、浅井氏に仕え姉川の戦いで初陣し、その後豊臣秀吉の弟秀長に仕えて各地を転戦、1592年に紀伊国粉河で1万石を与えられはじめて大名となった。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、1600年の関ヶ原の戦いでは大いに奮戦し、伊予国今治(愛媛県今治市)20万石の大名までになった。築城の名手といわれた高虎は、家康の命により膳所城・丹波亀山城・江戸城・丹波篠山城など数多くの築城や修築を行った。そして53才の時に伊予今治から伊賀国・伊勢国に転封となって津・伊賀上野城主となった。大坂冬の陣、夏の陣では先鋒として戦い、元和2年(1616)に27万3千石余となり、家康の死後は日光東照宮の造営にあたり、元和3年には32万3千石余の大名となった。(080301) | |
| 1)谷川士清(ことすが) 2)三重県津市(国道23号歴史散歩道) 3)宝永6年(1709)津の八町に町医の長男として生まれた士清は、13歳で京都の松岡玄達に入門し、「本草学(博物学)」「医道(古医学)」「儒学(漢学)」「神学(国学)」などを学び、享保20年(1735)津へ帰ってきました。町医の傍ら学問にも打ち込み、洞津谷川塾を開き、多くの門人を育てました。号を「淡斎」といい、「古事記伝」の著者である松阪の本居宣長とも親交がありました。有名な「日本書紀通証」は、20年をかけて「日本書紀」を分かりやすくしたもので、士清の名を高めました。さらに、わが国初の五十音訓に並べられた国語辞典として「和訓栞」もまとめ、日本の国語学に大きな業績を残しました。藩主も度々士清宅を訪問するなど、学問・健康(環境)の神様として今も市民に尊敬されています。(説明銘板より) (080301) |
| 1)小田野直武 2)秋田県仙北市(角館・青柳家) 3)1749〜1780年。 角館に生まれる。最初狩野派を学ぶが、1773年、鉱業の振興をはかる藩の招きで 視察に来た平賀源内に蘭画的手法による写生を学ぶ。平賀源内に伴われて江戸に のぼり、杉田玄白等によって刊行された『解体新書』の挿し絵を担当した。 (訪れたとき、左写真のように雪をかぶっていたが、係の人に頼んで雪を落としてもらった。080113) |
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| 1)松尾芭蕉 2)岩手県平泉町(中尊寺) 3)1664〜1694年。伊賀国上野の 農民の子として生れる。俳諧を10代半ば頃からたしなみ、31歳頃、俳諧師として 立つために江戸に下り、翌年談林派の総帥・宗因に認められ、同派の 江戸宗匠として活躍する。貞享元年(1684年)頃、蕉風俳諧を打ち立てた。 1689年、奥の細道の旅に出て約1ヶ月半後に平泉を訪れる。 中尊寺での句 「五月雨の降残してや光堂」 (光堂とは金色堂のこと) (080113) |
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| (特別掲載) 1)早太郎 2)駒ヶ根市(光前寺) 3)駒ヶ根市に伝わる伝説の犬。簡単に説明すれば、 光前寺で飼われていた「早太郎」という名前の犬が、 今の静岡県磐田市で祭りの際、一人の子女を人身 御供にする風習に、早太郎が子女の代わりとなり、 怪物の老ヒヒを退治し、村の災難を除いたと言う伝説。 光前寺境内に早太郎の墓がある。 (070915) |
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| 1)戸田貞雄 2)浜松市(竜ヶ岩洞) 3)1907〜1987(?)年。東海地方最大の 鍾乳洞・竜ヶ岩洞の発見者。竜ヶ岩洞は1981年6月に2人の理解者を経て開発開始、 1983年10月に一般公開にこぎつけた。貞雄氏76歳の時であった。 (070519) |
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| 1)田中吉政 2)柳川市(日吉神社) 3)1548〜1609年。関ヶ原の戦で 石田三成を捕らえ、その功績により、慶長6年に岡崎藩主10万石より筑後藩主 32万石として入国した。柳川城を居城として、有明海、矢部川、筑後川沿岸の 開発、治水、利水工事、柳川城の修築、整備による大城郭建設、柳川久留米 街道(田中道)、柳川・福島・黒木を結ぶ黒木街道の新設など、多くの業績を残した。 |
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1)栃錦清隆・高峰美恵子 2)恵那市(大正浪漫館) 3)昭和61年に 日本大正村の初代議長に栃錦さんが、同初代村長に高峰さんが就任された ことにより、平成6年に大正浪漫館前庭に像が建立された。(070322) |
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栃錦清隆 |
高峰三枝子 |
1)本多忠勝 2)桑名市(九華公園) (説明は愛知県編 の岡崎公園の本多忠勝を見てください) (070114) |
| 1)天海大僧正(慈眼大師) 2)日光市 (神橋近くの街角) 3)1536〜1643年。天台宗の僧。陸奥の国に生 まれ、比叡山・円城寺などで修行した。関ヶ原の戦 いの後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政 に参画。二代将軍秀忠のとき、家康の遺骸を日光山 に改葬、また上野に東山寛永寺を江戸の鬼門鎮護 の目的で建立した。三代家光の時には、目黒不動を はじめ、五色不動を指定するなど更に権勢をふる った。黒衣の宰相と呼ばれた。 |
| 1)佐久間象山 2)長野市(八幡原史跡公園) 3)1811〜1864。江戸時代末期の先覚者。信州 松代藩士。23歳のとき江戸に出て佐藤一斎の門に入り、朱子学を修めた。その後帰藩し真田家に仕えたが、 ふたたび江戸に出て、藩主の顧問になって江川担庵について西洋砲術を学ぶ。これより大いにヨーロッパの 学問に没頭、洋書を読み自力で大砲を鋳造することもあった。また国内の改革にも心を向けた。門弟吉田 松陰をヨーロッパに渡らせその知識を吸収して国内のことに当たらせようとしたが、松陰は密航に失敗し 彼自身も投獄され、後藩に蟄居(ちっきょ)を命じられた。しかし、その後も国事に関し沈黙することなく しばしば上書した。52歳の時前後7年にわらる蟄居をとかれ、藩政改革に尽力しようとしたが、 思うにまかせず、ついに元治元年三条木屋町辺りで馬上を襲われて54才で殺された。(061028) |
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| 1)恩田木工民親(おんだもくたみちか) 2)長野市(真田公園) 3)1717〜1762年。松代藩財政の建直し充実をはかり優れた民政を行った人として、 また江戸時代の経世家として名高い。三十歳で家老職となり、宝暦七年( 1757 )真田家 六代藩主幸之公に抜擢され、四十一歳で家老職勝手掛となって窮乏する藩財政建直しを 命じられた。 財政窮乏を救う道は倹約が第一であるとして自ら実行し、納税法の改正・ 荒地の開墾・養蚕等殖産興業をすすめ、一方、詩歌・音曲を奨励して生活に楽しみを与え、 民生の安定をはかり藩財政の建直しを成功させた。 しかし、在職僅かに五年、四十六歳で 病没した。民親の業績は『日暮硯』(ひぐらしすずり)によって、すでに江戸時代に全国的に 知られ、その写本が流布した。(説明板文を簡略化) (060903) |
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| 1)呂宋助左衛門 2)堺市(市民会館) 3)堺出身の貿易家。スペイン 治下のルソン島に渡り、1594年(文禄3年)に帰朝。このとき舶載したのは 唐傘・蝋燭・麝香、真壺であったが、これらを豊臣秀吉に献上した。また国内での 売り捌きで助左衛門に巨額の利をもたらした。のち、豪勢な暮らしが秀吉に 忌諱され、日本を離れ、カンボジアに亡命した。カンボジアの王家の庇護のもと、 対日貿易の監督役をつとめたと伝えられる。 (060826) |
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| (上) 1)千利休 2)堺市(市博物館) 3)1522〜91。年堺で生まれ、幼名を与四郎。幼少から茶 に親しみ、23歳の時宗易を名乗る。 初め信長に仕え、信長の死後は秀吉に仕え重んじられ、茶以外のことでも色々と自分の相談相手にする。そし て、天正13年には秀吉に従って宮中で茶会を催し、この時利休の名を受ける。 ところが突然天正19年2月13日、秀吉はいきなり利休に堺への退去を命じ、次 いで26日には京都に呼び出して切腹を命じる。 (060826) |
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| (左) 1)武野紹鴎 2)堺市(市博物館) 3)1502〜55年。信長の時代の和泉国・堺で、茶の湯の中心人物として活躍いた。 茶の湯に初めて“侘び”を取り入れ、千利休ら次の世代に深い影響を与えた。茶の湯だけでなく、連歌や禅宗にも通じ、才能豊かな人物だった。 晩年は、京に居を定め茶人として暮らした。 (060826) |