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全国編


堺市へ出かけた。街中で3人の偉人の像を見かけた。
今ままでも時折ではあるが、公園などで見かけてきた。
新シリーズとして、今後発掘、掲載していきたい。
1)氏名  2)設置場所  3)説明

                     (平成18年8月30日)


1)伊能忠敬   2)香取市佐原町   3)1745〜1818年。1745年、現在の千葉県に
生まれ、佐原の酒造家である伊能家の養子となる。のちに名主になって、堤防の建設に
尽力したり、凶作の時に米を安く売るなど、村人を救済する。50歳で隠居し、江戸に出て、
幕府方の高橋至時を師として、天文学・暦学を学び。1800年、幕府の命を受け、北海道と
奥州街道を測量、それから後、1816年71歳まで、日本全国の測量を続ける。忠敬の死後、
『大日本沿海輿地全図』は、幕府天文方や門弟により1821年に完成した。  (090228)

諏訪公園

伊能忠敬記念館

伊能忠敬旧宅


1)徳川光圀  2)水戸市(千波湖湖畔)  3)1628〜1700年。水戸藩初代藩主
頼房公の三男として生まれる。
1661(寛文元)年父頼房公が亡くなり、34才で第二代
藩主の座に就いた。光圀公は、民政に力を入れ、勧農政策を実施、藩職制の整備、
教育の振興等、善政を施し、数々の大事業を行う。特に歴史に深い関心をいだき、
全国から優れた学者を集め「大日本史」の編纂をした。     (090227)
1)徳川斉昭・七郎麻呂(慶喜)
2)水戸市(千波湖湖畔)

           

3)斉昭  1800〜1860年
  慶喜  1837〜1913年
            (090227)   
水戸藩第9代藩主斉昭公(烈公)は、弘道館、偕楽園を建設するなど、第2代藩主光圀(義公)とともに
義烈両公と称され、その事績は枚挙にいとまのない藩主として知られております。その斉昭公の七男、
七郎麻呂様(慶喜公)は、水戸の地において父斉昭公の薫陶を受け、後に徳川幕府第15代将軍として、
自ら近代日本の幕を開けた近世と近代の架け橋ともなった方であります。
『徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像』の建立は、21世紀に向けて、家族の原点、やさしさと厳しさを併せ
持つ親子の絆を、水戸の歴史から全国に発信するものです。斉昭公45歳、七郎麻呂様7歳を想定し、
斉昭公が七郎麻呂様に世の正しい道を指し示し、七郎麻呂様がそれに応え、斉昭公を仰ぎ見るという、
現代でも通じる親から子への愛情と厳しい指導を示す姿を表現しています。(碑文より・後半省略)
1)徳川斉昭  2)水戸市(弘道館前ポケットパーク)   (090227)
1)藤田小四郎  2)つくば市(筑波神社)  3)1842〜1865年。江戸幕末期の
志士。藤田東湖の4男、藤田幽谷の孫。1864年尊王攘夷の同志を集め、筑波山で
天狗党を挙兵。武田耕雲斎を盟主として中山道(木曾路)を経て上洛の途中、
加賀藩に降伏、同志とともに越前国敦賀で斬られる。       (090227)


1)中部幾次郎 2)明石市(明石公園) 3)1866〜1946年。大洋漁業(株)
創業者。明石市東魚町の鮮魚運搬卸業「林兼商店」の次男に生まれる。明治39年
(1906)年に日本最初の発動機船「第一新生丸」を開発し、昭和11年(1936)
には国産第一号の捕鯨母船「日新丸」の建造に成功。事業の本拠を下関に
移した後もふるさとの明石をこよなく愛し、多額の寄付などで地元の発展に
尽くた。1946年3月貴族院議員に勅撰されるも同年5月81歳で没した。(081229)

1)赤穂浪士47士  2)赤穂市(大石神社・参道)       (081228)  
1)大石内蔵助  2)赤穂市(大石神社・境内) 3)1659〜1703年。
播磨国浅野家(赤穂藩)筆頭家老。     (081228)
1)山鹿素行  2)赤穂市(赤穂城跡)  3)1622〜1685年。兵学者、儒学者。若松城下で生まれ、
6歳の時に江戸へ出て、9才で林羅山の門下に入った。素行は武人として実践的な孔子の教え
(聖学)の原点に帰ることを主張し、武士道を政治哲学まで高めた(山鹿流兵法)。31才の時に
赤穂藩に仕え、後江戸で「聖教要録」を出版。時の執権保科正之は、朱子学批判の罪で素行を
赤穂浅野家に配流した。1675年許されて江戸へ帰る。素行の教えは武士社会に大きな影響を
あたえ、大石内蔵助ら赤穂藩士、幕末の吉田松陰も山鹿流を学んでいる。      (081228)


1)豊臣秀次  2)近江八幡市(八幡公園)  3)1568〜1595年。秀吉の姉(日秀尼公)
の子として生まれる。秀吉の養子になり関白となるが、淀殿の子(後の秀頼)が誕生したため、
1595年秀吉の後継者を巡り自害させられた。享年28歳。1585年、八幡城を築き
城下町を開いて近江八幡を商都として繁栄させるのに大きく貢献した。  (081022)
1)ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(日本名・一柳米来留)  2)近江八幡市(メンターム資料館前)
3)1880〜1964年。25歳でアメリカから県立八幡商業高校に英語教師として招かれ、2年間の教職後、
キリスト教布教活動と共に建築事務所や近江兄弟社を設立。また、関西学院、大丸心斎橋店、豊郷小学
校など約1500件の設計を行った。1958年に近江八幡の名誉市民第1号に推挙された。  (081022)


1)美泉定山(みいずみじょうざん)  2)札幌市(上・定山源泉公園、下・定山渓ホテル)
3)1805〜1877年。岡山県出身の僧侶。48歳の時北海道に渡り、66歳の時に
定山渓温泉を発見し、湯治湯を設ける。後、獅子頭を持って托鉢に出る。 (081009)


1)田邊朔郎  2)京都市(疎水公園)  3)1861〜1944年。幕府の砲術家田辺
孫次郎の長男として江戸に生まれ、明治16年工部大学校土木科を卒業。琵琶湖疏水計画を
工部大学校の卒業論文にまとめ、これが契機になって京都府知事北垣国道に見込まれ卒業と
同時に琵琶湖疎水工事の大事業を委嘱された。長大なトンネル・傾斜軌道(インクライン)による
舟運・水力発電所などの技術は世界的にも注目をあびた。1894(明治27)年にイギリス
土木学会は田辺朔郎に琵琶湖疏水事業を讃えて「テルフォード賞」を贈った。(080920)


1)前田利家とまつ

2)七尾市(小丸山公園)

3)利家・1539〜1599年。
  まつ・1547〜1617年。
  小丸山城は1615年、利家が築城。ここから利家の出世が始まったことにより出世城と呼ばれる。
 平成14年のNHK大河ドラマが「利家とまつ」に決定したことをきっかけに平成13年10月にこの像を建立。
          (080808)


1)小池仁郎   2)根室市(根室公園)  3)1866〜1936年。
新潟県出身。根室で漁業を営んでいたおじの養子となって北海道に渡る。
1894年に漁場の権利を得て独立、鮭・ますの人工ふ化事業に取り組み、
鮭・ます漁業の盛況をもたらす原動力となる。北海道会議員、
衆議院議員もつとめ、北海道の水産界のために尽くした。  (080518)


1)太田道灌  2)埼玉県川越市(市役所)
3)1432〜1486年。室町中期の武将・歌人。
相摸国の人。扇谷上杉家の執事。築城・兵馬
の法に長じ江戸城や川越城を築く。江戸城に
文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、
『慕景集』がある。扇谷上杉家の勢力増大を
恐れた山内上杉顕定方の讒言により、
主君定正に殺される。(080504)
1)瓜生岩子  2)東京都台東区(浅草寺)  3)1829〜1897年。日本のナイチンゲールと
称される慈善事業家。今の福島県喜多方市生まる。1868年に会津で始まった戊辰戦争の際、
敵味方の区別なく助け、看護した。その後、身寄りのない子供やお年寄りを世話したりする
養育院や貧しい人を無料で治療する病院をつくるなど、福祉事業に一生を捧げ、女性初の
藍綬褒章を受賞した。この像は台東区福島県人会の主導で建立された。(080504)


1)棚田嘉十郎  2)奈良市(平城宮跡)  3)1860〜1921年。観光客に平城宮のありかを尋ねられ、荒れ放題の平城宮跡を見て保存の必要性を強く感じ、地元で保存の必要性を説く。自費で上京しては篤志家を募った。知事の協力を得て御下賜金300円を引き出し保存運動を盛り上げるが、推挙した篤志家の裏切り行為を恥じ、大正10年割腹した。遺跡は嘉十郎死去の翌年国指定の史跡となり、銅像が支持者達の手により平城宮跡地に建てられた。 (080322)


1)西郷四郎  2)会津市(会津武家屋敷)  3)1866〜1922年。会津藩士志田貞二郎の三男として生まれ、三歳の時戊辰戦争が起こり一家は若松から津川に移住した。明治15年上京、下谷永昌寺の講道館に入門し、近代柔道の礎を築く。その間西郷頼母の養子となる。小兵ながら山嵐の大業をあみ出し小説「姿三四郎」のモデルとなる。明治23年講道館を去り、後に長崎で長崎遊泳協会創設者として大きな功績を残した。大正11年に尾道で病没。   (080316)

1)松尾芭蕉  2)福島市(飯坂温泉駅前)
3)「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」の句を残す。
                (080316)
1)松尾芭蕉と河合曽良 2)山形市(山寺)
3)(松尾芭蕉)本ページ中尊寺の欄参照
(河合曽良)1649年〜1710年。江戸前期の俳人。1649年現在の長野県諏訪市に生まれる。伊勢国長島の河合家に養子となって、長島藩士となる。後に浪人となり、1681年に江戸に出て、松尾芭蕉の門下となる。松尾芭蕉の「鹿島紀行」や「おくのほそ道」の旅に同行、芭蕉の身辺の世話をした。焦門十哲の一人。

1689年に芭蕉と曽良が山寺を訪ね
  「閑かさや岩にしみ入る蝉のこえ」
の名句を残した。    (080314) 


1)小田野直武   2)秋田県仙北市(角館・青柳家)   3)1749〜1780年。
角館に生まれる。最初狩野派を学ぶが、1773年、鉱業の振興をはかる藩の招きで
視察に来た平賀源内に蘭画的手法による写生を学ぶ。平賀源内に伴われて江戸に
のぼり、杉田玄白等によって刊行された『解体新書』の挿し絵を担当した。
(訪れたとき、左写真のように雪をかぶっていたが、係の人に頼んで雪を落としてもらった。080113)


1)松尾芭蕉  2)岩手県平泉町(中尊寺)  3)1664〜1694年。伊賀国上野の
農民の子として生れる。俳諧を10代半ば頃からたしなみ、31歳頃、俳諧師として
立つために江戸に下り、翌年談林派の総帥・宗因に認められ、同派の
江戸宗匠として活躍する。貞享元年(1684年)頃、蕉風俳諧を打ち立てた。
1689年、奥の細道の旅に出て約1ヶ月半後に平泉を訪れる。 
中尊寺での句 「五月雨の降残してや光堂」 (光堂とは金色堂のこと) (080113)


1)天海大僧正(慈眼大師)
2)日光市 (神橋近くの街角) 

3)1536〜1643年。天台宗の僧。陸奥の国に生
まれ、比叡山・円城寺などで修行した。関ヶ原の戦
いの後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政
に参画。二代将軍秀忠のとき、家康の遺骸を日光山
に改葬、また上野に東山寛永寺を江戸の鬼門鎮護
の目的で建立した。三代家光の時には、目黒不動を
はじめ、五色不動を指定するなど更に権勢をふる
った。黒衣の宰相と呼ばれた。


1)呂宋助左衛門  2)堺市(市民会館) 3)堺出身の貿易家。スペイン
治下のルソン島に渡り、1594年(文禄3年)に帰朝。このとき舶載したのは
唐傘・蝋燭・麝香、真壺であったが、これらを豊臣秀吉に献上した。また国内での
売り捌きで助左衛門に巨額の利をもたらした。
のち、豪勢な暮らしが秀吉に
忌諱され、日本を離れ、カンボジアに亡命した。カンボジアの王家の庇護のもと、
対日貿易の監督役をつとめたと伝えられる。         (060826)
(上) 1)千利休 2)堺市(市博物館)
3)1522〜91。年堺で生まれ、幼名を与四郎。幼少から茶 に親しみ、23歳の時宗易を名乗る。 初め信長に仕え、信長の死後は秀吉に仕え重んじられ、茶以外のことでも色々と自分の相談相手にする。そし て、天正13年には秀吉に従って宮中で茶会を催し、この時利休の名を受ける。 ところが突然天正19年2月13日、秀吉はいきなり利休に堺への退去を命じ、次 いで26日には京都に呼び出して切腹を命じる。    (060826)
(左) 1)武野紹鴎 2)堺市(市博物館)
3)1502〜55年。信長の時代の和泉国・堺で、茶の湯の中心人物として活躍いた。 茶の湯に初めて“侘び”を取り入れ、千利休ら次の世代に深い影響を与えた。茶の湯だけでなく、連歌や禅宗にも通じ、才能豊かな人物だった。 晩年は、京に居を定め茶人として暮らした。   (060826)


川柳&ウォーク